こんばんは(^O^)
原田りょうです。
ブログの更新が遅くて申し訳ありません。
最近帰宅してすぐに倒れこみ寝てしまうという毎日を過ごしております(^_^;)
時間の管理ができていないのでいけませんね・・。
さて、本日、原田けんじ先生と辯天宗の感謝祭に参加させて頂きました。
辯天宗の本部である冥應寺は智辯学園時代の練成会で来て以来10年ぶりでした。
2時間の正座と、久々の読経。足は完全にしびれました(;_;)
昔はそらで唱えられたのですが、完全に忘れていました(^_^;)何気なく毎日聞いていた宗祖様のお言葉も、今となってはしみます。。
その後、ありがたいことに管長の大森慈祥さまとお話をさせて頂きました。
貴重な機会を与えていただいた原田けんじ先生には本当に感謝です。
さて私は宗教法人辯天宗が開校している辯学園出身なのですが、
そこでは毎日の宗祖様のお言葉だけでなく、宗教という授業がありました。
宗教は必修で、これを履修しなければ卒業できません。
宗教の授業では、徳や人としてのあり方、礼儀、感謝などたくさんのことを教えて頂きました。
クラブもない進学校だったのですが、それでも宗教の授業があったいうのは、それだけ宗教で学ぶことが高校時代の若者には重要なのだと今となって思います。今思うと、あのとき宗教の授業で教えて頂いたたくさんのことは本当に今の自分を作っていると思います。
公立の小中学校では、学習指導要領によって年間35時間(週1ペース)で道徳の授業を行わなくてはいけません。ちなみに高校にはその規定はありません。つまり人間にとって大事な道徳は普通小中学校でのみ教えられます。
しかし、そんな道徳が教えられる貴重な機会である小中学校時代において実は道徳は正式の教科ではありません。教科書も不要で内容は学校や教師任せという現状です。教科書はなく、副読本という扱いです。
というのも、戦前アレルギーで、「戦前の『修身』の復活だ」と、道徳の導入当初に日教組の反対によって、正式の教科となっていないのです。
そんな立ち位置なので、実際は、算数が遅れているので算数をやるところがあったり、今の詰め込みカリキュラムの穴埋めに道徳の時間が使われ軽視されてしまっているところがあるのが現状です。
子どもたちに、「道徳は何をやっているの?」と聞いた時に、「算数」と当たり前のように答えられたときは衝撃でした。
そんな状況のなか、道徳が教えられず、権利ばかりを主張する長い間の人権教育によって、日本人は利己的になったのではないでしょうか。(※もちろん日本人の犯罪率が世界でも異常に低いという、社会的規範が万遍なくいきわたっていて、
道徳的規範が世界トップレベルであるということは確かに誇るべきことだと自負しています。)
それに加えて、戦後の近代化や合理化といったアメリカの個人主義を取り入れたせいで、よりいっそう利己的になったのではないかと思います。
個人主義を唱える米国は、利己主義とならない抑止力として、宗教、唯一絶対的神の存在があります。
神は人間が利己主義者なることを許さず、利己的であれば神に背いていると罪悪感を持ち、それによって、信仰のある欧米人は利己主義となるのを防いでいるのです。
しかし日本には唯一絶対的神の存在はないために、個人主義のみ植え付けられ、利己的になったのではないでしょうか。
相手のこと、住んでいる街、そして日本のことを考える。
他人を思い、公を思うこと、それが今の日本人に欠けていると私は思っています。
では、どうすればよいか。
そう考えたときに、もっと学校で教えられなくてはいけないこと、評価すべきことが皇室です。
天皇陛下は、日本人の模範的な姿です。
私たちのことを大御宝としていつくしまれ、安寧を祈る。
見返りを求めないで、公のために祈る無私の存在。
そんな天皇陛下を模範として敬意を払うこと。
それが利己的になっている日本人には、今ますます必要ではないでしょうか。
世界最長の皇室の歴史を持つ日本の素晴らしさに、日本人として誇り高く感じます。
原田りょう
原田りょうです。
ブログの更新が遅くて申し訳ありません。
最近帰宅してすぐに倒れこみ寝てしまうという毎日を過ごしております(^_^;)
時間の管理ができていないのでいけませんね・・。
さて、本日、原田けんじ先生と辯天宗の感謝祭に参加させて頂きました。
辯天宗の本部である冥應寺は智辯学園時代の練成会で来て以来10年ぶりでした。
2時間の正座と、久々の読経。足は完全にしびれました(;_;)
昔はそらで唱えられたのですが、完全に忘れていました(^_^;)何気なく毎日聞いていた宗祖様のお言葉も、今となってはしみます。。
その後、ありがたいことに管長の大森慈祥さまとお話をさせて頂きました。
貴重な機会を与えていただいた原田けんじ先生には本当に感謝です。
さて私は宗教法人辯天宗が開校している辯学園出身なのですが、
そこでは毎日の宗祖様のお言葉だけでなく、宗教という授業がありました。
宗教は必修で、これを履修しなければ卒業できません。
宗教の授業では、徳や人としてのあり方、礼儀、感謝などたくさんのことを教えて頂きました。
クラブもない進学校だったのですが、それでも宗教の授業があったいうのは、それだけ宗教で学ぶことが高校時代の若者には重要なのだと今となって思います。今思うと、あのとき宗教の授業で教えて頂いたたくさんのことは本当に今の自分を作っていると思います。
公立の小中学校では、学習指導要領によって年間35時間(週1ペース)で道徳の授業を行わなくてはいけません。ちなみに高校にはその規定はありません。つまり人間にとって大事な道徳は普通小中学校でのみ教えられます。
しかし、そんな道徳が教えられる貴重な機会である小中学校時代において実は道徳は正式の教科ではありません。教科書も不要で内容は学校や教師任せという現状です。教科書はなく、副読本という扱いです。
というのも、戦前アレルギーで、「戦前の『修身』の復活だ」と、道徳の導入当初に日教組の反対によって、正式の教科となっていないのです。
そんな立ち位置なので、実際は、算数が遅れているので算数をやるところがあったり、今の詰め込みカリキュラムの穴埋めに道徳の時間が使われ軽視されてしまっているところがあるのが現状です。
子どもたちに、「道徳は何をやっているの?」と聞いた時に、「算数」と当たり前のように答えられたときは衝撃でした。
そんな状況のなか、道徳が教えられず、権利ばかりを主張する長い間の人権教育によって、日本人は利己的になったのではないでしょうか。(※もちろん日本人の犯罪率が世界でも異常に低いという、社会的規範が万遍なくいきわたっていて、
道徳的規範が世界トップレベルであるということは確かに誇るべきことだと自負しています。)
それに加えて、戦後の近代化や合理化といったアメリカの個人主義を取り入れたせいで、よりいっそう利己的になったのではないかと思います。
個人主義を唱える米国は、利己主義とならない抑止力として、宗教、唯一絶対的神の存在があります。
神は人間が利己主義者なることを許さず、利己的であれば神に背いていると罪悪感を持ち、それによって、信仰のある欧米人は利己主義となるのを防いでいるのです。
しかし日本には唯一絶対的神の存在はないために、個人主義のみ植え付けられ、利己的になったのではないでしょうか。
相手のこと、住んでいる街、そして日本のことを考える。
他人を思い、公を思うこと、それが今の日本人に欠けていると私は思っています。
では、どうすればよいか。
そう考えたときに、もっと学校で教えられなくてはいけないこと、評価すべきことが皇室です。
天皇陛下は、日本人の模範的な姿です。
私たちのことを大御宝としていつくしまれ、安寧を祈る。
見返りを求めないで、公のために祈る無私の存在。
そんな天皇陛下を模範として敬意を払うこと。
それが利己的になっている日本人には、今ますます必要ではないでしょうか。
世界最長の皇室の歴史を持つ日本の素晴らしさに、日本人として誇り高く感じます。
原田りょう
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