改めて、東日本大震災にて犠牲となられた方々の御冥福をお祈りするとともに、御遺族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。
2011年3月11日。東日本大震災発生。
テレビに映し出される悲惨な光景を目の当たりにして、何か力になりたい、こうしてはいられない、という思いが募り、すぐに現地に入りました。
(↓当時のボランティア活動のブログ)
http://haradaryo.blog60.fc2.com/blog-entry-11.html?sp
何度も被災地を訪れ、がれき撤去や泥かき、被災された方々の慰問など様々な活動を行いました。
その時の活動の中で最も辛かったのが、遺体安置所にて行方不明のお母さんを一緒に探す手伝いをしたことです。ドライアイスもなくそのまま収容される何百という御遺体。 異様な空気・臭い。死と向き合う。 顔がむちゃくちゃになってて確認が難航。 お母さん「らしき」人を見つける。
かける言葉が見つからない。 言葉なく一緒に涙するしか私にはできませんでした。
そこで感じたことは、「このままじゃまずい」ということです。やることはたくさんあるのに、一人では全く進まない。片付けても、片付けても一面瓦礫まみれの光景に無力感を感じていました。
さらに、関西に帰ってみてとても衝撃を受けました。酒を飲み、カラオケで遊び、楽しく笑っている光景。被災地と遠く離れた関西では温度差がありました。現地では人手不足なのに、メディアからボランティア自粛要請という情報が流れ、人手は足りているという誤解を与えていました。
そこで、現地で活動するだけでなく、一人ひとりが現地の状況や被災された方の声などを発信することで、関西と被災地で状況を共感し、長期的な支援の流れができればという思いからボランティア団体「ACTION」を立ち上げました。
5月末、第1回目として宮城県気仙沼市大島に阪大生100名を派遣。
現在までに500人以上の大学生を現地に派遣しました。
私のあとに団体の代表を引き継いでくれた後輩は、気仙沼市大島に移住、現在も支援活動を続けてくれています。
復興はまだ道半ば。
私も政治家として、復興するその日まで、しっかりと携わって参ります。
2011年3月11日。東日本大震災発生。
テレビに映し出される悲惨な光景を目の当たりにして、何か力になりたい、こうしてはいられない、という思いが募り、すぐに現地に入りました。
(↓当時のボランティア活動のブログ)
http://haradaryo.blog60.fc2.com/blog-entry-11.html?sp
何度も被災地を訪れ、がれき撤去や泥かき、被災された方々の慰問など様々な活動を行いました。
その時の活動の中で最も辛かったのが、遺体安置所にて行方不明のお母さんを一緒に探す手伝いをしたことです。ドライアイスもなくそのまま収容される何百という御遺体。 異様な空気・臭い。死と向き合う。 顔がむちゃくちゃになってて確認が難航。 お母さん「らしき」人を見つける。
かける言葉が見つからない。 言葉なく一緒に涙するしか私にはできませんでした。
そこで感じたことは、「このままじゃまずい」ということです。やることはたくさんあるのに、一人では全く進まない。片付けても、片付けても一面瓦礫まみれの光景に無力感を感じていました。
さらに、関西に帰ってみてとても衝撃を受けました。酒を飲み、カラオケで遊び、楽しく笑っている光景。被災地と遠く離れた関西では温度差がありました。現地では人手不足なのに、メディアからボランティア自粛要請という情報が流れ、人手は足りているという誤解を与えていました。
そこで、現地で活動するだけでなく、一人ひとりが現地の状況や被災された方の声などを発信することで、関西と被災地で状況を共感し、長期的な支援の流れができればという思いからボランティア団体「ACTION」を立ち上げました。
5月末、第1回目として宮城県気仙沼市大島に阪大生100名を派遣。
現在までに500人以上の大学生を現地に派遣しました。
私のあとに団体の代表を引き継いでくれた後輩は、気仙沼市大島に移住、現在も支援活動を続けてくれています。
復興はまだ道半ば。
私も政治家として、復興するその日まで、しっかりと携わって参ります。
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